Caz日記

#139_ 永遠のような一瞬は集める価値がある

 

今日、とっても美しい言葉に出会いました。

 

「永遠は存在しないが、永遠のような一瞬は集める価値がある」

これは、F著

20代で得た知見の一節。

 

 

いつも混んでる六本木ヒルズの蔦谷書店。

今日の店内はガラガラ。台風の土砂降りの中、前に20代の友人に勧められたこの本を読むために。

 

もう20代なんて、15年も前。どんな気持ちになるんだろと、自分の中にいる「若者」の声を聞きたくて。

 

 

とても、心動かされる本でした。

今思うと、15年前は、もっと単純な世の中でした。

僕が就職した時は、超就職氷河期でしたが、景気は底をから徐々に好転するタイミング。

 

まだガラケーでしたし、友人との連絡はメールのみ。解像度の荒いスマホのカメラで写真を撮って、いわゆる「写メ」を送るのが、最先端のコミュニケーション手段でした。

 

そのころは、情報は常に「AからB」「BからA」みたく、ベクトルが定まってたし、仕事も今よりずーっと単純。

 

 

現在は小学生でもiPhoneを持ち、情報は光の速度で全世界に行き渡り、そして1日後には陳腐化します。

コミュニケーションはグリッド化され、自然発生的に複数の会話が三次元に成立する世の中。

 

現実と空想の境界線は曖昧になり、夢なのかゲーム空間なのか、僕もわからなくなる瞬間があります。

 

将来のことなんてわからないし、わかりたくもない。この若さとこの空間が、そしてあの人との関係も永遠に続けばいいのに。

 

でも、永遠なんてないことくらいは、わかってて、だから時々どうしようもなく不安になる。

 

僕の中の「若者」はそう感じています。

 

 

その存在しない「永遠」ですが、あなたも感じたことありませんか?

僕はあります。

 

永遠を感じた瞬間は、僕の場合2つの種類に分類されます。

 

1つ目、大自然を目の当たりにし、自分もその自然の営みの一部分に感じたとき。

沖縄県波照間島のビーチで、何時間も水平線を眺めていたとき

富山の秘境で、満点の星空眺めながら流れ星の数を数えてたとき

他にもいくつか

 

そして2つ目。大切な人と同じ時間を共有し、魂が重なった時。

高校の放課後、毎日話した親友とのとめどない会話

或いは、仕事で遠く引っ越す恋人を、新幹線のホームで見送った思い出

 

太古からそこに存在していたものや、誰かの気持ちと、自分の心がシンクロしたとき。

 

それが、「永遠のような一瞬」だったのかもしれません。

 

残念ながら、僕には、まだまだその一瞬の数は多くありません。

 

緊急事態宣言下、この夏の思い出というと、暑かった日の仕事帰りに買ったハイボールがとても旨かったことくらい。

 

突き抜けるような青い空も、

泣きたくなるような広い海も、

喧騒に満ちた池袋の夜も、

 

今年の夏は何も感じることができませんでした。

 

 

待ってろよ、次の夏。「永遠のような一瞬」をたくさん集めてやる。

 

20代で得た知見

 

Official髭男dism「アポトーシス」

↑今の気分はこの曲

 

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