今日、とっても美しい言葉に出会いました。
「永遠は存在しないが、永遠のような一瞬は集める価値がある」
これは、F著
20代で得た知見の一節。
いつも混んでる六本木ヒルズの蔦谷書店。
今日の店内はガラガラ。台風の土砂降りの中、前に20代の友人に勧められたこの本を読むために。
もう20代なんて、15年も前。どんな気持ちになるんだろと、自分の中にいる「若者」の声を聞きたくて。
とても、心動かされる本でした。
今思うと、15年前は、もっと単純な世の中でした。
僕が就職した時は、超就職氷河期でしたが、景気は底をから徐々に好転するタイミング。
まだガラケーでしたし、友人との連絡はメールのみ。解像度の荒いスマホのカメラで写真を撮って、いわゆる「写メ」を送るのが、最先端のコミュニケーション手段でした。
そのころは、情報は常に「AからB」「BからA」みたく、ベクトルが定まってたし、仕事も今よりずーっと単純。
現在は小学生でもiPhoneを持ち、情報は光の速度で全世界に行き渡り、そして1日後には陳腐化します。
コミュニケーションはグリッド化され、自然発生的に複数の会話が三次元に成立する世の中。
現実と空想の境界線は曖昧になり、夢なのかゲーム空間なのか、僕もわからなくなる瞬間があります。
将来のことなんてわからないし、わかりたくもない。この若さとこの空間が、そしてあの人との関係も永遠に続けばいいのに。
でも、永遠なんてないことくらいは、わかってて、だから時々どうしようもなく不安になる。
僕の中の「若者」はそう感じています。
その存在しない「永遠」ですが、あなたも感じたことありませんか?
僕はあります。
永遠を感じた瞬間は、僕の場合2つの種類に分類されます。
1つ目、大自然を目の当たりにし、自分もその自然の営みの一部分に感じたとき。
沖縄県波照間島のビーチで、何時間も水平線を眺めていたとき
富山の秘境で、満点の星空眺めながら流れ星の数を数えてたとき
他にもいくつか
そして2つ目。大切な人と同じ時間を共有し、魂が重なった時。
高校の放課後、毎日話した親友とのとめどない会話
或いは、仕事で遠く引っ越す恋人を、新幹線のホームで見送った思い出
太古からそこに存在していたものや、誰かの気持ちと、自分の心がシンクロしたとき。
それが、「永遠のような一瞬」だったのかもしれません。
残念ながら、僕には、まだまだその一瞬の数は多くありません。
緊急事態宣言下、この夏の思い出というと、暑かった日の仕事帰りに買ったハイボールがとても旨かったことくらい。
突き抜けるような青い空も、
泣きたくなるような広い海も、
喧騒に満ちた池袋の夜も、
今年の夏は何も感じることができませんでした。
待ってろよ、次の夏。「永遠のような一瞬」をたくさん集めてやる。
↑今の気分はこの曲