「カーシェア」という合理的判断によって失われたもの
皆様、土日お休みだった人も多いかと思いますが、いかがお過ごしでしたか?
僕はというと、息子の塾の送り迎えと、自分の用をひたすらこなし、開いた時間でジムと読書を楽しみました。
息子の塾は、土曜日には四ツ谷、日曜日には自由が丘と、通常授業と校舎が変わります。
最近は、せめて移動時間中くらいゆっくりさせてやろうと、過保護にも自動車にて送迎しております。
僕は自家用車は所有しておりませんので、いつもオリックスさんのカーシェアを活用しております。
一時間1,200円くらいで使えますし、月にせいぜい1万円程度。駐車場代も車検や保険の心配しなくてよくて、平日車を使わない我が家としては、車を所有するよりも圧倒的に経済的。
でも、息子は僕に毎週こう言います。「パパ、なんで車買わないの?買って欲しいんだけど。」
そう言われる度に、カーシェアを利用することの合理性と、東京都心で自家用車を持つことの「無駄さ」を淡々と説明し、理解させようと試みます。
それがいつも中々理解してくれず、彼としては、「所有することで満足感が生まれるし、いつでもどこでも行ける安心感がある。」というのが言い分。
最後は、「すまん。車をもつ余裕がないのだよ。」と情けない理由で、渋々納得という感じです。
でも、彼が主張する車を所有することのメリットは、まさにその通り。もし車を所有していたら、このコロナ期間中の生活も随分豊かになったに違いないし、所有したいと考えることで、「稼ぐ」ことのモチベーションが生まれたかもしません。
それに、親としては複雑な気分ではありますが、息子が自分の主張を持っていることは非常にいいことであると感じました。
無駄を否定する世の中はつまらない
脳科学者の、中野信子さんの著書「ペルソナ 脳に潜む闇 (講談社現代新書)」で、こういう一節があります。
相変わらず、攻撃的な表現でとても面白いです。
この「世間の多くの人々は、無駄を許すような経済的、心理的余裕を、どうも持ち合わせてはいない」という一文が、僕の心の刺さります。
カーシェアという便利なサービスが生まれたことで、車を所有することが「無駄」となり「悪」となってしまいました。僕はその「無駄」がどうしても許せないだけなんです。
中野信子さんは、「無駄を肯定したい」と言っている。
中野さんの「無駄」とは、人間が生きる上で感じる意識であったり、それこそご自身を「存在しないもの」と定義して、その無駄を肯定するというもっと高貴なものですが、今日の僕にはそれがしっくりきました。
そうか。車を所有すること以外にも、無駄なことなんて無数にある。
それは、無駄に見えても、違う視点から捉えると、必要不可欠なことだったというのもある。
確かに無駄を否定して廻る世の中はつまらないし、無駄が伝統や文化に昇華することだってある。
「無駄」イコール「悪」と決めつけるのだけは止めよう。
そんなことを感じた1日でした。
いつか僕も「無駄を肯定できる」余裕のある人間になれたらいいな。そして、それが他人に優しくなれるきっかけだったりするかも。
では、明日からまた一週間が始まります。
ウイルス対策継続しながら、頑張りましょうね!
では。